ブルーライト・ヨコハマといしだあゆみ

 

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私にとって高度成長経済の思い出と言えば、

というと大げさな話となるが、

いしだあゆみさんの「ブルーライト・ヨコハマ」である。

この曲に何か鮮烈な思い出があるというのではない。

ただ、この曲を聴くと、

(高度成長経済の日本の曲だな~)

と思う。

1968年12月にリリースされたそうだから、世の中は高度経済成長真っ只中であった。

当時、小学生だった私は本当の意味は半分以上わからないまま、

「いつものように愛の言葉をヨコハマ」「私は揺れて揺れてあなたの腕の中」などと歌っていた。

大人もこの歌詞だと子供が歌っても仕方がないと思っていたのだろうか。

それとも、あまり目くじらを立てて突っ込まれたらまずいと思ったのだろうか。

奥村チヨさんの「恋の奴隷」とかピンキーとキラーズの「恋の季節」とかに文句と言った親も「ブルーライト・ヨコハマ」には文句を言わなかったように思う。

余談だが、後年、嘉門達夫さんが

「街の灯りが全部消えたら 停電~🎵」

と歌っていたのを聞いて、うまく作るものだ感心した。

 

この曲、歌謡曲にはめずらしいことにあっけらかんと、恋が成就して幸福になる歌である。

まったくネガティブな言葉を使っていない。

たとえば、この年のヒット曲の一つ伊東ゆかりさんの「恋のしずく」では「頬を濡らす恋のしずく」と歌っていて、雨あるいは涙を連想させているし、「忘れないようにしたいの」と否定の文がある。

同じく小川知子さんの「ゆうべの秘密」も「ゆうべことはもう言わないで」と否定を使い、「幸せなのに涙が出る」とネガティブともとれる言葉を使っている。

これに対して、「ブルーライト・ヨコハマ」では

「とてもきれい」・・・きれいなのは街のことなのだが、歌っているいしだあゆみさんがキレイなので、ついつい女の人が言われているようなイメージを持つ。

「いつものように愛の言葉を」・・・いつも愛の言葉を言っている関係ってことなんだ、うらやましい。

「やさしいくちづけもう一度」・・・すでに一回くちづけをしているのに再びである。

「あなたの好きなタバコの香り」

とかポジティブな言葉を連ねている。

最後は「二人の世界いつまでも」と永遠の愛を歌うのである。

 

さて、1968年12月と言えば

三億円強奪事件である。

警察官に扮し、ガードマンをだまし、3億円を奪ったけれど、誰も死んではいない。

3億円は銀行から東芝府中へ輸送された従業員ボーナス。

保険がかかっていたので損したのは保険会社だけだったようだ。

当時は学生運動華やかだったころで、

反権力の思想が流行っていたから、

三億円事件の犯人は変な意味で英雄だった。

 

反権力を気取れただけ、時代として余裕があったのかもしれない。

そういう意味でも高度成長経済の時代であった。

 

 

サヨナラ満塁ホームラン

子供の頃、一年に一回くらい野球を観に行った。
小学校時代だったから、父に連れられてである。
父は、なぜか大洋ホェールズのファンであった。
ある日、その父に連れられて巨人×中日戦を見に行った。

当時、私は、どこかのファンということはなかったが、巨人の城之内投手が好きであった。あの、独特のフォームからの投球がカッコヨカッタ。

その日は、城之内投手が先発。途中まで巨人がリード、こちらはニコニコである。
と、父が
「帰ろう。」と言い出した。駅が混む、電車が混むというのである。
もっともなことなので、帰ることになった。
もう試合も決まったようなものである。

中日球場から名鉄中日球場前まではそれなりの距離があった。
歩き出して、しばらく進むと、人がそれなりに歩いてる。
あとから考えれば野球観戦をしていた人たちの考えることは、ほぼ同じだったのである。
駅に着くとやはり混んでいた。それでも、電車に乗ることは乗れた。

電車の中では、誰かが未練がましくなのであろうか、ラジオの実況を聞いていた。
どうやら、中日のチャンスであるらしい。
ひときわラジオの声が大きくなり「ホームラン」の声。
逆転サヨナラ満塁ホームランの声。
何やらすごいことが起こったらしい。

だが、そこに私はいなかったのでる。

野球ファンの記憶に残る試合はそうあるものではない。
今にして思うと、目の前にあったのに、逃した。
やはり、多少のリスクを侵さなければおいしい思いはできないのである。

山口百恵と中三トリオ

「横須賀ー

誰かがこの名前をつぶやいただけで胸をしめつけられるような懐かしさを覚える」

山口百恵さんの「蒼い時」はこの文で始まる。

山口百恵さんは横須賀で生まれたのではない。だが、彼女の多感な時期を横須賀で過ごしたそうである。

あの時代を生きてきた人は横須賀と言って思い浮かべるのは1番に山口百恵さんではないだろうか。

 

「これっきり、これっきり、これっきりですか」と歌う彼女は美しかった。その彼女、デビューは何だかフッと出てきたような気がします。

桜田淳子さんは華々しくデビューしました。エンゼルハットで「天使も夢見る」なんて少女らしい曲を歌っていました。

百恵ちゃんは「目覚めてくる年頃よ」などと、ちょっと背伸びをしている曲を歌っていたようです。あまりこのときの記憶はありません。ある時、淳子ちゃんに似た髪形のスターがいるなと思ったって見た写真が百恵ちゃんでした。

最初から、彼女が伝説の人になると思っていた人はいなかったのではないでしょうか。

お二人とも「スター誕生」という番組の出身者。この番組でスターへの道が。以前よりは近くなったとはいえ、地方の人間にはまだまだ遠い世界でした、芸能界は。

だから、お二人は眩しかった。いえいえ、森昌子さんが眩しくなかったと言っているのではありません。

彼女は歌がうまくて近寄りがたいと言ったら失礼になるかもしれませんが、「スター誕生」という番組がなくても、なんらかの形でスターになった人だと思いますね。

正直、中三トリオという言葉を聞いても違和感がありましたね。

(同じ学年というだけで一つにしていい存在なのか)

そんな考えを百恵ちゃんが引退するまで持っていました。

 

彼女は昭和の伝説の人。これに異を唱える人はいないと思います。同じ時代を生きてきたことを誇りに思うなんて大げさなことは言いませんが、同じ時代に生きていたことがうれしいですね。

さて、この年1冊の本がブームになり、社会現象に近い状態にりました。

タイトルは「日本沈没」。

景気が良いからの不安な気持ちになるのでしょか。景気の良い時代の不安感を象徴したタイトルでした。

 

 

 

 

浅川マキ 夜が明けたら

妙なもので、いつだったか、どこだったかわからないけれど、覚えていることがある。

(あるいは、夢だったかもしれない)

などと思う。

そんな不確かなことであるが妙にはっきりと覚えている。

私にとって、浅川マキさんがそうだと言えば言うことができる。

子供の頃、浅川マキさんがテレビに出ていたことを覚えている。いや夢だったのかもしれない。

出たのは、歌謡番組。

(こりゃ、夢っぽくなってきた)

シューベルツ、クールファイブといったところと出ていた。

後にも先にもこの時以外、浅川マキさんをテレビで拝見したことはない。

したがって、荘子ではないが、夢の中なのか現実なのかいまだに謎である。

浅川マキさんが「夜が明けたら」をリリースしたのは1969年。

シューベルツが「風」という曲をリリースしたのも1969年。

クールファイブが「長崎は今日も雨だった」をうたったのも1969年。

となると全く可能性のない話ではない。

だが、いま一つ現実味がない。

あの当時、フォーク系の歌手でテレビに出演した人はあまりなかったと思う。

浅川マキさんがどんな顔をしてテレビ局のスタジオに入ったかと思うと、心が笑みになる。

などど書きながら、今、浅川マキさんを聞いている。「かもめ」が終わったところ。

 

さて、浅川さんの「夜が明けたら」は独特のつぶやくような歌い方である。当時、歌謡曲というものしか聞いていなかった私には一種の衝撃でした。

ところが、凡人の悲しさ。この衝撃は歌が終わるとキレイに消えてしまって残らなかった。そのまま残した人の中にはブルースをうたう人になった人もいるかもしれない。

私はというと、意味も分からずに

あなたに会ったその日から 恋の奴隷になりました~🎵

などと歌って親から怒られたりしていました。

恋の奴隷にならずに浅川マキさんの声の奴隷になっていたら良かったかもしれない。

 

振り返ってみると、分かれ道はずいぶんあったね。

違う道を歩めば違った人生だったことは確実だ。

それが、幸福な道だったかどうかは分からない。神のみぞ知る世界です。

 

 

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1969年と言えばもちろんアポロ月着陸ですね。

子供の間でも

「ヒューストン」という言葉が流行したですね。

とっても凄いことだったのに、凄すぎてきわめて実感のない出来事でした。

 

映画キャバレー

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みなさん、こんばんは。

今日は、映画「キャバレー」のお話をしましょう。

はい、これ1972年のアメリカ映画です。

主演はライザ・ミネリ

まあ、この人のお父さんは、ビンセット・ミネリという映画監督さん。「ボヴァリー夫人」とか「花嫁の父」、「巴里のアメリカ人」なんかを撮っています。

お母さんはジュディー・ガーランド。あの「オズの魔法使い」でたいへん有名な女優さん。

この映画一家に生まれたのがライザ・ミネリ

彼女はいい意味でも悪い意味でもお母さんの影響を受けたと思うんですね。

お母さんは、有名な女優さんなんですけど、薬物中毒なんかで引退と復帰を繰り返すのね。

ライザは「キャバレー」で一躍有名女優の仲間入りをしたんですね。まあ、ヨカッタ、ヨカッタ。でも、この頃からアルコール依存症になって行くんですね。

これが遺伝とは思いませんけど、有名になることの怖さを感じますね。

映画のファンや観客が「次の作品はどんなんだろう」「どんな凄い映画を撮るのだろう」などと言います。

こんな話が聞こえてくれば、いい映画に出演して、いい演技をしてと思ってしまうんですね。

このプレッシャーはきっと凄いんでしょうね。

 

さて、映画の話戻りますと、まあ、ライザ・ミネリって人はお母さんに似て大きな目をしてますね。

映画のスクリーンで見たから余計にそう思ったのかも知れないけれどね。

こんな大きな目で見つめられたら男はイチコロですね。

 

ちょっと真面目な話をしましょうね。この作品はナチス・ドイツという存在が色濃く反映しています。

映画のラストに登場するナチスの将校が不気味でした。

あの時代はナチスに絡む作品が多かったんですね。

 

1969年の「地獄に堕ちた勇者ども」、1973年のイタリア映画「愛の嵐」、1974年のフランス映画「ルシアン青春」。

ほかにも、いっぱいいっぱいありますね。

 戦争を経験した人が健在だった時代でしたね。

 

そんなわけで、1972年と言えばミュンヘンでオリンピックが開かれました。日本は男子バレーボールが初優勝しました。因縁かどうかわかりませんですけれど、イスラエル選手宿舎で人質事件が起きて選手が死んでしまうという事件も起きました。

ユダヤに気を使って、気を使って、気を使いまくっていた西ドイツでこんな事件が起こるなんて皮肉ですね。

というわけで、まだまだ第二次世界大戦の影を引きずっていた1972年でしたね。

はい、時間ですね。サイナラ。サイナラ。サイナラ。

 

白い巨塔と田宮二郎さん

若いときに見たテレビで妙に記憶に残っているものがある。

見たくて見たくて、放映を指折り数えて見たというのではない。

何とはなしにテレビをつけたときに出てきた画面に見入ってしまって、それがそのまま記憶に残ったというものである。

白い巨塔の撮影現場にお邪魔してといった感じの番組であった。なんでそれを見たかは全く記憶にない。

とにかく、撮影でベッドの上に田宮二郎さんと太地喜和子さんが並んでいたことを記憶している。

田宮さんのカッコよさと太地さんの色っぽさが記憶に残った。

また、この後、田宮二郎さんが自殺したので記憶に残ったのかもしれない。

余談だが、太地喜和子さんも畳の上で死んでいない。因縁と言えば言えなくもない。

さて、白い巨塔は1978年6月から翌年の1月まで放映されたようである。

ちなみに、1978年6月というと福岡が異常渇水となって1日5時間給水という苦しい日々となった。これが12月まで続いたようである。

一日のうち5時間しか水が出ない。残りの19時間は断水状態。

自分もこれほどではないが、のちに渇水を経験した。とにかく、殺伐としてくる。イライラしてくる。口論が増える。水が不十分になっていいことなんて一つもないように思う。

そこそこ前のことになるが、「下町ロケット」で財前部長という人が登場するたびに田宮二郎さんの顔が頭をよぎっていた。

私にとって財前=田宮二郎という図式は一生変わりそうもない。

桜田淳子 「はじめての出来事」

  • ヒットしたにはヒットしたけれど、いつしか人々の記憶の中からは消えかけている歌があります。

誰かから

「こんな歌がありましたよね」

などど言われれば

「あった、あった」

とは言うけれど、その存在をすぐに忘れてしまうような歌。

この歌もそんな歌の一つと言ったら失礼だろうか。

ヒットした割には影が薄いです。

なんと言っても淳子ちゃんはエンゼルハットをかぶって歌った「私の青い鳥」の印象が強いからかもしれないです。

 

そんな彼女ではあるけれど私個人はこの歌に思い入れがありますね。もともと好きだった淳子ちゃんがこのころから加速的に好きになりました。それまでのボーイッシュといった感じから少し大人っぽい髪形になり始めたかもしれません。

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また、こっちも一丁前に色気づいてきたからかもしれません。

 

そんなこんなでこの歌は1974年12月にリリースされています。

1974年12月には前月に田中角栄さんが辞意を表明したのを受けて、後任を決めました。後任は三木武夫さん。これの決定過程がいわゆる椎名裁定と言われました。